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■ 人として Part II ■

平成17年05月27日(金) 11:00pm(NZ time)

おばんです、みなさん。
今日の空模様も全体に冴えない天気でした。
雨は、キチンと降りました。
最近は、雨が多くなってきました。
でも幸いなことに気温は、それ程、低くありません。
ですから凄く寒いと言う事は有りません。
でもこれから冬が本格化し、毎日毎日雨が続き、カビが生える日が来ます。
でも静電気は、余り来ませんし、日本の冬ほど寒くないので総体的に見ると決して苦情を言えません。
と言うか私の憧れの地中海性気候です。
苦情など言えようか、いや、言えない。

昨日の「人として」の続きです。
この記事は、まず最初に「ニュージーランドドリーム」と言うHPのトップページの「気まぐれ草紙」と言う欄に載せます。
その後、「ニュージーランドで日々思うこと」と言うExciteのblogに転記します。
そのExcite blogで当件について投稿してくれた人が居ます。
Paquicialさんとままさんのお二人です。
このお二人の意見がヒントになり、ほぼ謎が解けました。

私の昨日の記事で書いた内容は、実は本当に有った或る会話が私の頭の中に像(ハイカラな言葉で言うとイメージ)として有りました。
それは、人種差別とIdentity(アイデンティティー = 自分って誰と言う意味?)に関する会話でした。
人が差別される時、或いは、差別する時、国籍や民族に拘わらず「人として」対等に接すると言う防衛装置を装備する事が有ります。
私は、このような背景を持って昨日の記事を書きましたが、上で言ったPaquicilさんと言う方の意見は、意外でした。
彼女の考えは、「人の本性(嘘ついたり、怠けたりとかマイナスの)に照らし合わせて」では無いか、と言う事でした。
これを読んで私は、成るほどそんな捉え方があるのかと思いとても参考になりました。
ただ、これは、私の思い描いていた像とはやや異なりました。

次にままさんと言う方の投稿を読み、それに回答しながら私は、自分の考えのもやもやがやや晴れて来ました。
彼女の言う事は、彼女も「人として」と言う表現を使うけれどもその意味を説明すれと言われると上手く説明出来ないと言う事でした。
私は、「人として」と言う言葉を使いませんが、彼女と同様に上手く説明出来ない。
それで、彼女に対する返答を書きながら、私が何故「人として」と言う表現に違和感を感じるか大体答えが出ました。
まず、表現自体がとても曖昧である事。
「人として」言う表現が曖昧で有るが故にその意味する範囲が広く、焦点が定まらない事。
言葉として綺麗である事。
或る言葉の意味する範囲が広くそして耳辺りの良い綺麗な言葉は、便利で使いやすいと思います。
しかし、具体性に欠け、何を言いたいのかぼやけてしまいます。

私が「人として」と言う言葉に感じる違和感の原因は、このせいだと思いました。
つまり「人として」と言う綺麗な言葉の持つ曖昧さが誤魔化しやまやかしに思えたからだと思います。
私は、若かりし頃(今でも若いですがもっと若かった頃)、物事を正確に的確に具体的に表現する事を好みました(実際は、中々出来ませんでしたが、そうあるように努めていました)。
曖昧な部分を残す事がとてもずるいような気がして嫌でした。
しかし、人生30年近く生きてくると、余りはっきりと言う事は時には、人を傷つける事もあるので、時と場合によりけりだと思うようになりました。
人間が丸くなったのです。

それで、私の中では、曖昧な表現もありになりました。
でも未だに体質として曖昧さを嫌う傾向が残っているようです。
しかし、曖昧さは、時として優しさになることもあります。
曖昧模糊の状態にしておく事で人は、救われる事があります。
しかし、曖昧模糊が常に人を救うとは、限りません。
曖昧ではっきり出来ないが為に、悪循環環境を断ち切ることが出来ず苦しむ事もあります。
それらは、常に人の意思によって断ち切られたり、続けられたりします。
今宵があなたに取りまして、素敵な金曜の夜になる事を願っています。


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by kiwidream1997 | 2005-05-27 21:47 | こころ