平成17年04月26日(火) 11:24pm (NZ time)

おばんです、みなさん。
今日のオークランドは、曇りを基調とした天気でした。
昼間かなり寒かったですが、夜雨が降り出してから少し気温が上がった気がします。

私は、今、本を読んでいます。
題名は、「神々の流竄(ルザン)」、作者は、梅原猛、出版社は、集英社文庫、1985年12月20日第1刷。
今、約3分の1ほどまで読み進んで来たところです。
本の題名から内容は、察する事が出来ると思いますが、この本は、日本の古代史を解析しています。
古事記と日本書紀、続日本紀(しょくにほんぎ)特に古事記と日本書紀(2つあわせて記紀と呼ばれる)を自然な流れに沿って解釈していきます。
一般的な歴史書に良くあるような、理解できない部分は、この部分の記述は、間違っているとか或いは、自分の理解出来る様に強引に解釈をすると言う事はありません。
あくまでも、無理の無い納得の行く結論を導き出していきます。
彼の推論と仮説は、実に興味深いです。

我々は、戦前、古事記と日本書紀は、100%全て真実として信ずる事を強要されました。
そして、戦後は、100%虚偽として否定されました。
その事に関して、梅原猛は、この本の序文の部分で(同本18項「古代人の心を忘れた古代史」)以下の如く言っています。
やや長いですが、そのまま引用します。

前おきは、そのくらいで十分である。
お前が大いなる真理と称する仮説について語れと人はいう。
私の心も、1刻も早く、仮説を語りたいという焦燥に燃える。
しかし、誤解をさけるために、なお二、三の注意が必要であろう。

古事記、日本書紀について、戦後、日本の歴史学者は、あまりにも不信の眼を投げたのである。
そしてその不信の眼は、同時に、自国に対する不信の眼でもあった。
そしてその不信の眼の原因は、かつて古事記や日本書紀をあまりにも信じるドグマを、彼等が強制されたからであった。

本居宣長(もとおりのりなが 1730~1801)は、日本の古典の研究者として、もっとも偉大な学者であった。
彼によって、日本古典の研究は、はじめて1つの学問にまでなったといってよい。
そして本居宣長は、文献学者にふさわしい解釈の方法をとった。
それは、古事記、日本書紀に書かれていることがらを、そのまま全部事実として受けとる方法である。
こざかしい人間の知恵が、どうして幽遠な神の道を、知ることができようか。
こざかしい人間の知恵で、神のことをあれこれ言挙げすることをやめて、神の言葉をそのまま聞け。
それが、本居宣長の解釈の方法であった。
それはたしかに、すぐれた解釈の方法であった。
深い真理を知るには、己を空しゅう(むなしゅう)しなければならないのは当然である。
しかしこの宣長の解釈の方法が、唯一の解釈の方法として固定されるとき、いちじるしく知性の発展をさまたげる。
宣長の頭の悪いエピゴーネンに指導された戦争中の教育は、古事記、日本書紀の神話をすべてうたがうべからざる歴史的事実として教えていたのである。

このような不合理に、健全な理性が反対するのは当然である。
すでに、津田左右吉(1873~1961)はあの軍国主義の時代において、健全な理性でもって、このような神話について、批判していた。
彼によれば、古事記、日本書紀の神話は、大部分六世紀の大和朝廷の指導者によってつくられた虚偽であった。
津田は、豊富な資料と、巧みに矛盾律をつかう推論によって、古事記、日本書紀の神話の否定者となった。
そして、戦後、長い間の国家主義から自由になった日本の理性は、津田の中に、狂気の時代には珍しい1つのさめた理性を見た。
そしてひとびとは、この津田のさめた理性を尊敬しつつ、古事記、日本書紀にたいして、津田の否定的判断に従ったのである。

そして、このひとびとの古事記、日本書紀にたいする否定の心の中には、自国にたいする憎悪の心がかくされていたかもしれない。
あの戦争のさなかにあって、多くの肉親や友人の死を見、そして自己自身の死すらも覚悟しなければならなかったわれわれが、自国にたいする憎悪をもたないとしたら、かえっておかしいのである。
かくして、津田の記紀にたいする否定的判断は、進歩的歴史学者のもっとも重んずるところとなったのである。
正直な津田は、戦後、自分は前々から天皇制の支持者であったといったが、そういう発言は、進歩的学者にとって、古事記、日本書紀の否定者、津田左右吉というイメージをぶちこわす、迷惑至極な発言でしかなかった。

かくて、わが国最古の歴史書にして神学の書である古事記、日本書紀は、あわれにも、無視と忘却の中におかれていたのである。
その間にも、あるいは坂本太郎氏(「日本古代史の基礎的研究 上・下」)の、あるいは上田正昭氏(「日本古代国家論究」)などの、それぞれ観点のちがう、興味深い研究があるにはあったが、大部分の歴史学者にとっては、上代史を専攻する学者すら、この記紀の問題、特に神代史の問題は、素通りにすべき問題であったのである。

そしてその代わり、歴史学者は、考古学の成果をもって歴史叙述に代えたのである。
かつて神々の坐っていた場所に、壺や剣や玉がぎょうぎょうしげに坐りはじめたのである。
あたかも、そういう壺や剣や玉の研究によって、上代史の歴史の秘密がすべてとかれるかのように。
壺や剣や玉のみによって、上代史を論ずるわけにはゆかない。
何より、われわれはそこに人間を見なければならぬ。
しかも、神々を厚く信じた人間を、そこに見なければならないのである。
壺や剣や玉はもともと人間がつくったものである。
しかも、人間は上代にさかのぼればさかのぼるほど、神々を信じていたのである。
壺や、剣や、玉の中に、上代人の生活を見た考古学者は、それによって、かえって、上代において比べるもののない大きい意味をもった、見えないものの力を感じざるをえなかったのである。
とすると、その人間を研究するには、神々の研究が必要である。
神々の研究をするためには、神社を研究すると同時に、古事記、日本書紀を研究しなければならぬ。

こうして再び、われわれは記紀の研究に投げ帰されるのである。
われわれは、戦後余りに、記紀にたいする否定の執にとらわれていたのである。
戦前のわれわれが記紀にたいする肯定の執によって、真実を正しく見る眼を失っていたとすれば、戦後のわれわれは記紀にたいする否定の執によって、真実を正しく見る眼を失っていたのである。
竜樹(りゅうじゅ 二~三世紀)は、真理を知るためには、有無の執、肯定、否定の執を破らねばならぬと考えた。
ここでもわれわれは、有無の執、肯定、否定の執を破らねばならない。
かつてわれわれは津田によって肯定の執から解放されたように、今われわれは否定の執から解放されねばならないのだ。
真理は、肯定否定の二つの執から解放された中間にあるという竜樹の言葉は、ここでもまた真実なのである。

戦後二十五年間、われわれは、自国にたいする否定の執に、あまりにもとらわれすぎたと私はいったが、同時にわれわれは精神にたいする否定の執にとらわれすぎたのである。
歴史家のほとんどすべては、唯物論者になった。
経済史学にあらざれば、もはや、歴史学にあらざる風潮が日本史学界の主潮であった。
そして、古代史研究において、日本古代社会における無階級社会の存在が、ごく大まじめに議論されたのである。
私はここで、改めてマルクス(1818~1883)の幻想について語ろうとは思わない。
マルクスの幻想は余りに深いので、この幻想について、私は哲学者として、別な場所で、必死の戦いをいどまねばならぬ。
このような仕事については、別の機会をまたねばならぬ。

ただ、ここで私がいいたいのは、戦後日本の歴史学者のとった物質万能の考え方では、とうてい、歴史の真実は見えがたいということである。
なぜなら、人間は、卑俗な唯物論者が信じるよりはるかに精神的存在であるからである。
物質的存在であると共に精神的存在である人間を研究するのに、精神の研究を度外視して、到底、真実の解明は不可能なのである。
上古において、精神の歴史の痕跡は、宗教において示される。
そして日本の上古において宗教は神の崇拝の名でよばれた。
それゆえ神の研究なくして、上古の日本人の精神の研究は不可能であり、従って、上古の日本人の歴史の研究も不可能なのである。
戦後の唯物論の歴史家は、あたかも、人間が胃袋と生殖器だけで出来ていて、それさえ満足させれば、人間は十分なのだという仮説にもとづいて、研究をはじめたかのようである。
おそらくそのような卑俗な人間観は、彼の精神にたいする絶望の産物でなかったら、自己の卑しさの反映であったであろう。

戦後の日本古代史学の論争として、騎馬民族論争とか、ヤマタイ国論争があった。 それらの論争についても、いずれ私は論じたいが、いずれも記紀についての研究なくして上代史の研究をしようとした点において、戦後の自国に対する絶望の時代における歴史研究にふさわしい研究であったといわねばならぬ。
自国の歴史文献を全く信ぜず、外国の文献によってのみ自国の歴史を考える。
それは外国軍隊の占領下にある日本の歴史学者に、十二分な自虐的な快感を与えてくれる学問的態度であったかもしれない。

真理は、有と無の中間に、肯定と否定の中間にあると私はいった。
しかし、この言葉は、更に明確にされねばならない。
古事記、日本書紀神話において、どこに真理がありどこに誤謬(ごびゅう)があるというのか。
本居宣長のように、すべてを真理とするのも、戦後の歴史家のように、すべてを誤謬とするのも、どちらも正しい真理探究の道ではないとしたら、われわれはどうしたらよいか。
われわれは、記紀における真理と誤謬とをどのようにして見分けたらよいか。

こういう問いと共に、われわれは、一つの一般的な問いに投げかえされる。
いったい、一つの書物における真理とは何であり、虚偽とは何であるかという問いである。
そのような問いを問うには、いったい一人の人間における真理とは何であり、虚偽とは何であるかと言う問いを問うことを必要とする。
一人の人間は、いったいどのような場合に真理を語り、どのような場合に虚偽を語るのか。

人間は、いつも真理と虚偽の中間に住んでいる。
いつも虚偽ばかりを語る人間も存在しないと共に、いつも真実ばかりを語る人間も存在することが出来ない。
人間は自己の利害のかかっていることには、虚偽をかたりやすいものであるが、自己の利害のかかっていないことには、真実を語ることを好むものである。
このような立場から、アリストテレスは、自己を真理の人とせしめるために、徹底的に第三者、つまり純粋客観の人とならしめようとしたが、このように徹底的な第三者となることは、学者としては可能であったとしても、実際人、つまり政治家や商人にとっては、不可能であろう。
なぜなら、支配への意志のあるところ、そこには一つの観念操作が必要であり、観念操作には、多分の作為と同時に虚偽が必要であるからである。

人間というものは、生きるために虚偽を必要とするというのは、ニーチェの言葉であるが、私はやはり、政治というものは絶えず大きな虚偽を伴っていると思う。
それは皇帝政治だろうが人民の政治だろうが同じことである。
かつて日本の多くの歴史家は、天皇は絶対に嘘をつかぬと信じ、またひとびとにそれを信じさせてきた。
そしてそのような神話がうちやぶられたとき、また歴史家たちは人民は絶対に嘘をつかぬと信じ、あるいはそれをひとびとに信じさせようとした。
しかし、おそらく戦前の歴史家も、戦後の歴史家も、あまりに素朴に天皇や人民を信じすぎた。
事実は政治のあるところ、そこにはやはり虚偽があるのである。
天皇と同時に人民もまた、嘘をつきうるものなのである。

そしてその虚偽の中に、新しい歴史をつくろうとする支配者たちの必死の意志がかくれているのである。
そして、その必死の意志による歴史の偽造をのぞいて、その他のことは、比較的客観的に語られるのである。
巧妙な嘘つきはいつも嘘をつきはしない。
99パーセントは真実のことを語り、1パーセントだけ嘘をつく。
しかもその1パーセントが一ばん肝要なことである。
そういう嘘つきがたくみな嘘つきである。
このように考えると、われわれは、古事記、日本書紀制作者たちの、作為的意志がどこにあるかを明らかにすることにより、記紀における真実なるものと虚偽なるものを、区別することが出来る。

とすれば、記紀の作為的意志は、どこに働いているのか。
こういう問いは、記紀の成立根拠にかんする本質的な問いである。
こういう問いに答えるためにも、われわれは記紀を熟読すると共に、記紀の書かれた時代の歴史書である「続日本紀」を注意深く読まなければならぬ。

ふぅ~ (・_・)
自分自身の言葉で書くのは楽ですが、既にある文章を転記するというのは、実に大変な作業です。
かなり疲れました。
なんでこんな大変な作業をしたかと言うと、我々が戦後受けた歴史教育について説明する為です。
昨日言ったことと同じ事の繰り返しですが、趣向を代えて見ました。
また、梅原猛と言う哲学者の書いた歴史書は、大変興味深いと言う紹介も兼ねています。

私の好きな随筆家に山本夏彦と言う人が居ます。
彼が言うには、人は、その人独自の考えを持つ事は非常に難しいと言っています。
何故かと言うと、我々は、生まれて家庭で親兄弟と過ごし、小学校へ行き教育を受けその過程で何らかの色に染まっているからです。
我々が日本の歴史を考える時、既に我々はある程度、洗脳されています。
何故なら、我々の学校で使われている歴史教科書も何らかの色に染まった歴史学者達によって書かれているからです。
梅原猛は、戦後の歴史学者は、殆ど唯物論者だと言っています。
つまり、マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東などの思想に偏った人達が書いた歴史を我々は習ってきました。
教科書裁判で長年争った家永三郎さんなどはその典型的な例でしょう。
また、我々の学校には、唯物論を信奉している教師達が沢山居ました。
そして、我々は、日本人は極悪非道な人でなしであると言う考えを植え付けられてきました。

そう言う教育を受けた人間は、戦争中、日本人は悪い事ばかりしてきた国民だと思う事でしょう。
愛国心は、微塵も育まれないどころか、全く逆に、祖国を恨むようになります。
私は、大学へ行く頃まで、実際そのような考えを持っていました。
そして、日本人である事が恥ずかしいと思っていました。
彼らの目論見は、北海道の片田舎の純粋な少年を見事に洗脳するのに成功しました。
しかし、私は、学生の頃、渡辺昇一の本を読んでから日本人としての誇りを持つようになりました。

自分の祖国に誇りが持てないと人は、自分自身にも自信を持てませんし、海外の人と話しても臆してしまいます。
他国から何か文句を言われるとあたふたと慌てふためき、ご機嫌をとろうとします。
そう言う外交がずっと続いてきました。
そこに付け込むのが中国です。
日本人の人の良さを彼らは良く知っていてそこを突付くのです。
中国が望む事は、謝罪や誠意という無形のものでは無いと思います。
彼らが欲しいものは、金と面子(アジアで唯一の国連常任理事国としての覇権)だと思います。
中国人はとても合理的に物事を考えます。
実質的に役立つものを求めます。
若し、日本政府がいきなり、中国政府への経済援助を打ち切ると発表したなら、中国は、ガラッと態度を変えると思います。
韓国人は、違うと思います。
韓国は、本当に日本と友達になりたいと思っていると思います。
彼らは、経済的に既に自立していますから、お金ではなく、日本の誠意を求めていると思います。

今回の日本の歴史教科書と国連常任理事国入り問題が絡まった騒動のその現物を私は見たいです。
つまり、問題となっている歴史教科書そのものを読んでみたい。
それを見れないのが残念です。

この騒動を海外の報道機関は、どのように見ているか、ちょっと調べてみましたが、アメリカのNew York Timesの記事を参照している日本語の朝鮮日報を見つけ(
【NYT紙「日本の教科書、韓中よりバランスが取れている」】、New York Timesの原文を参照しようとしたら、日系人記者が書いている記事で、過去の記事は、何と有料なので諦めました。
英国のBBCの記事も見ましたし、NZ Heraldの記事もざっと探しましたが、どこも客観的な状況を報道しているだけで、自分の考えを主張していませんでした。
他も眺めましたが、こんな記事がありました。
「China and Japan: a textbook argument」 このサイトは、聞いた事の無いサイトなので世間の評価は、如何ほどか分かりかねますが公平で客観的な意見を言っているようです。 が、なにぶん長文の英語なので訳したら、梅原猛の上記の文章の転記よりも更に大変な作業になります。
ウェブサイトの翻訳機に掛けるとわや目茶苦茶な邦訳が出来上がりますので、頂けません。
誰か邦訳お願いできませんかぁ~?

日本の歴史と歴史教育と最近の騒動がどうも気になって仕方なかった為、今日の気まぐれには、ちょっと時間を掛けました。
4月25日の私の記事をTrack Backしてくれた tabitoさん、ありがとう御座いました。
あなたのSentimentは、私とほぼ同じです。 →
「シドニーで国際人になろう!」
今夜は、これにて御免。
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